昭和五十七年三月十六日 朝の御理解
御理解第二十一節
信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。
私は御信心の信心は、わが心が神に向こうていく、ということだと思うんです。それはいわゆる生神を目指しての精進ということ、その生神を目指しての精進が、その気になれば誰でも出来る、又その手だてを合楽では説いておると思うんで透けれども、昨日、丁度昨日あういうような御理解を頂いた後に、それを裏付けるような感じでしたけれど、石田先生達親子がヨーロッパ旅行をなさっておられます。研修旅行です。
特に宗教に感心を持っておられる方ですから、キリスト教、あちらでは回教などの、もう大体造詣が深うあんなさいますから、その事にちょっと触れておられましたが、今日の御理解を例えば間違った信心は一心が例えば定めても、わが心が神に向かっていくというものじゃないという事ですね。 ですからその中にハガキですから、まあ簡単に書いてございましたが、云うなら教師が間違えたら大変な事になる。
それは特に回教の事だと思いますけれども、もう大変な修行がある。そしてそれを行じておる、金光教に云うなら教師、信者、達の話を聞いてです、素晴らしい、それこそ人の真似の出来んような修行をしよるけれども、なら幸せとか、人間が信心によって幸福になると云ったような事ではなくて、やはりその悩みを訴えておると云うことが書いてあるんです。いわばその信心なければ世界は闇とおっしゃるが、信心あってもやはり世界は闇的な信心がたくさんあると云うことなんですよね、ま、昨日の御理解などで申しますと、合楽理念以外の信心は本当に気の毒だなあと、ま、私がこれ実感なんですけれども、もう石田先生もそういう意味の事が書いてあった。
そういう話を聞いたりま、実際現実を見たからですね、最後に哀れなる仮名、と書いてあります。本当に哀れなるかなですね。
それは合楽理念を段々分かっていかれ身に付けていかれ、合楽の信心となら、こういうキリスト教やら回教の差をですね、もうしみじみ分かられてそういう信心をしておる人に対してでしょうね、哀れな事だ、ということを云っておられます。
だから昨日の御理解のま、実感を見たり聞いたりしてきた人達の実感がそこに哀れなるかなという現れとる感じがしますね。それはもう宗教的修行はちょっと書いてありましたが、もう様々な修行をするそうですね、回教なんかは、ね、寝らない修行、食べない修行、一日の御祈念ですね、なんかはもうそれこそ一時も揺るがせしないといったような、それがけれども、なら人間の幸福にはひとっつもつながっていない。その悩みを彼たちが訴えておると云うことです。
昨日は富久信会でしたから、皆さんのお話を頂きましたが、私はこの富久信会というのは、御商売をなさる方達ばっかりのま、信心研修ですが、もう本当に信念に満ちた御商売をしておられるということ。
まあその実を上げておられるのが、会長の佐田恭造さん、秋永友良氏、久富正義氏ね、秋永文男氏のお話を聞きますと、本当にとにかく、もう信念に基づいての御商売が出来ておられるということです。とりわけあの加藤さん達の発表を着させて頂きますと、よしそこに損があろうが、引っかけられておろうがそれを聞いた瞬間、そりゃ困ったというそういう事が全然ない、ち云うとられるね。
これは信念に基づく云うなら、合楽理念に基づく御商売をしてそうした信念が生まれてきたからだと私は思うです。その信念に満ちた例えば商売がです、本当に確信を持って出来るようになったら、最高だと思うですね。
昨日は伊万里の朝参り組の方達が六、七名みえとりました。まだ三十代代位の方達ばっかりなんです。けども、もうこの方達の一人一人の話を聞いて、もう俄然その貝が生き生きとしてきたような感じでしたけれども、いわゆるまあ駄、信念にその、基づいてのということは出来ない。今稽古中、まあ合楽理念に・・・ある方が発表してました、合楽理念は簡単です、明瞭です、しかもおかげが確かですと合楽ではまあ申します。それをね。
しかし大変難しいですということを最後に云っておられます。簡単です明瞭です、それでも難しいです。それはおかげ、形に表れるおかげを頂くのが難しいのであって、その内容というものは、信心を頂いて合楽理念の実験実証さして頂いとる事の喜びをその後に語っておられます。
例えば道を歩いておっても、生き生きとそこに、神様を身近に感じる。日々の体験、だからここでおかげは簡単ですと最後に申しますね。合楽理念に基づくことは、それこそね、簡単です、明瞭です、云うならば土の心なら土のこころ。黙って治めるなら黙って治めると。又は成り行きを大切にする、尊ぶ、たったその一言だけでも良いからそれに徹していくということですから、難しい教えではない。
ならそれを行じていけばいいですねということなんですね、簡単です、しかも明瞭です、というところを今その如何に明瞭であるかということを、まあ研修していかれておるわけですけれどもね、難しいですというのは、そういうなら、したからすぐ商売が繁盛するようになった、こうという事じゃないのですね。
自分の心の中に信心の喜びを頂くと云うことは容易いのです。おかげが確かなんです。合楽のなら、実験実証する用になると、自分の心の中も喜びとか助かりというものを感ずるわけ。
だからそれが積もっていくに従ってならそれに形のおかげも伴のうてくる事は勿論です。とそういう発表をなさる方があったが、中にはとにかく、お話をしたいことがいっぱいですね、もうとにかく朝参りをなさる、そして今二日遅れか三日遅れの合楽の御理解を頂いて、もうそれを又あと皆で研修される。それが真剣なんですね。
ですからもうそれを実験実証していきよるうちに分からないこと、分かったこと、その話をするなら、あの方いつもここへみえて、その自分が実験実証しよる事をお届けされるんですけれども、だからお話をすることはいっぱいなんです。いっぱいなんだけれども、いっぱいのようでまああのあるようで、お話の材料があるようでないようで、ただ一言あの、申しますならばもう結局、親先生の手にも足にもならせて頂きたいと云う一念です、ということ。それが言葉だけじゃないです。本当に私は。
昨日は大変疲れておってきつかったですけれども、その話を聞いてから何かもういっぺんに元気がでたような感じがしました。本気で皆さんどうでしょう。本気でなら、合楽の信心が間違いないと、昨日、今日頂く御理解から分かって感じられたらなら、それこそね、昨日のあの佐田さん、あの鹿児島の佐田さんじゃないけれども、おかげ頂く、お取次を願う事が金光教のように思うておったのが、長年ね、合楽ではね、神願を説かれる。神の願いを説かれるね。
だから神の願いに応えようと云う心の状態我こう開けてきたとこう云うが、なら今のその方の神の願いが様々な信仰体験から、もうこれはぎりぎりのま、応え、一言の答えですけれども、親先生の手にも足にもなりたいと願っとるとこう、皆さんどうでしょうか。親先生の手にも足にもなる。どうぞどうぞ御願いはするけれども、手にも足にもなると云うことはない。
昨日北野の青木ツルヨさんが皆さんもご承知のように、ま実意丁寧な信心をなさる方です。どうぞ今日も合楽理念の実験実証さして下さいと云うて、御祈念をしよったら、御心眼にね、湖の水がね、ダーっとこう竜巻になって天に昇っていく所を頂かれたというんです。
だから本当に地の心なら地の心、水の心なら水の心に徹していきよったら、それはもう地表だけの事ではなくて天にまでも通うてくるような働きが起こってくるんです。合楽理念は云うなら天地の交流が出来る意味だと、私は昨日思ったんですけれどもね。そういう働きが起こってそういう信心にならなきゃけないのだね。
まあだ稽古中で、その現在商売いろんな不景気の時代ですからね。まあ先月の赤字だった、今月も赤字だったというような事も続くでしょうけれどもね、そこに云うならば神願を悟り神愛を分からせて頂いてですね、それこそそこんところが平気で平然と。加藤さんじゃないけれども、有り難く受けていけれる信心が育っていくね。
私はね、一番信心させて頂いて、頂かなければならないことはね、信心を頂いとる、神様を頂いとるどんな場合であってもです、信心に満ちた溢れた生活が気でるということが信心生活だと思うですね。信心しよるから信心生活じゃないです。神様を信じて疑わないね、信念の云うならば、に、満ちた生活。これは商売人だけじゃありませんね。そういう方達が合楽にはたくさん出来ていきよる。信念に満ちた、確信とまではいかんでもね、それが信心のいよいよ確立を願っていくうちにですね、いよいよ確信的な。
この確信的な信心と云うか心にはもう絶対おかげが伴のうてくるです。昨日の朝の御理解から、そして石田先生のそのハガキを頂いてからね、又は昨日の富久信会の方達の皆さんのまあ、たくさん発表されました中にね、前半は若い方達の今いうね、いよいよ信念に基づく生き方を身につけて、云うならば簡単です、明瞭ですね、けれども難しいですというとこを通っておられる。難しいということは、なら合楽におかげ頂いてから、さっそく商売が繁盛するということではないけれども、そこに信心の有り難さが段々分かってきておると、いうまあ前半のお話であったがね、後半のまあ富久信会の幹部の方達のお話を頂くと、いわゆる信念にもう満ち溢れた感じですね。だから信念に満ち溢れた生活が出来ると云うことね、それがいよいよ確信ともなりね、確固たるものの信心の確立が出来ていくときに、限りないおかげにも恵まれる。
私はわが心が神に向かうというのは、そういうですね、実験実証のでけれる間違いのない、いわゆるわが心が神に向かうていく自分の心が、一歩一歩神様に近づいていってるなあと、こう実感出来るようなね、信心を云うのだと思います。
ただ何様でもええ、信心さえしておればと、昔から「信あれば徳あり」といったような事を云うけれども、たくさんの教えを持って、ようしておる、大宗教もありますけれども、そのなら、教師信者がどういう生活をしておるか、どういう不安な生活をしておるかも、それはその回教なら、回教の戒律をもう皆が、間違いなく、まあ踏み行のうていっておるけれどもね、日常生活の上にね、幸福を頂ききっていない、ま、哀れなお話をあちらで聞かれたという石田先生のお話からです。
本当にねえ、合楽理念以外の、云うならば信心生活と思うとるけれども、そういう実のない、こもらない、生き方をしておるのじゃなくてね、合楽理念に基づく生き方、というものがね、お互いの生活の中に生き生きとしてね、実験実証できて、云うならば信念に満ち溢れる家庭生活が営まれね、そりゃもう生神を目指すのですから、まあその信心はも限りがないことですけれどもね、信心は云うならば簡単です、明瞭です、おかげが確かです。
楽しゅう愉快になれれる手だてを、まあ皆さんは稽古なさっておられるわけですからね、まずはその信念に満ち溢れる日常生活が出来る所まで、信心を進めていきたいと思います。 どうぞ